2008年3月19日 (水)

なぜ汐留が気持ち悪い街なのか-新・都市論TOKYO

建築家の隈研吾の著作「新・都市論TOKYO」を読みました。
私は高校時代は一瞬建築学科を目指したことも有り、また大分昔、商業建築というか有体にいえば店舗内装の発注側だったこともあり、バブル時代までの、いわゆる「ポストモダン建築」までは同時代的・職業的関心があったのですが(高松伸大好き!)、ここ10年、日本の建築のトレンドにはまったくついて行けてなかったのです。
 しかし東京一極集中的再開発を、いち生活者として見たり買物したりするなか、どうしても(こないだまで持ち株会社が有った)汐留にいく度、なんだか生理的に寒々した気分に陥るのでした。昨年リタイアされた電通のクリの知り合いも、「所詮新橋なのに飯食うだけでもかっつけて嫌なとこ!」と嘆いておられました。
 六本木ヒルズは祝祭空間としてけっこー好きなんですが、おなじ六本木でも東京ミッドタウンはあんまりイケテナイ気がする。この生理的感覚の差異はなんだろう、単にバブルが終わって「ポストモダン的/俺が俺が自己主張型建築デザイン」が終焉し、街や環境と調和するため、たてもの自体のデザインがおとなしくなっただけなのか、ずーっと腑に落ちないままでした。
 その疑問がこの隈さんの本を読んで氷解。目から鱗でした。
つまり東京の(いや世界中の大都市はほとんど)、都市再開発はビジネスベースでのリスクヘッジのため、かつての国という公権力やパトロネーゼによる個人の思想と個性を持った開発、というものが不可能になってしまったためなのだそうです。隈さんは、ヒルズや東京ミッドタウンのPJにもかかわっているのですが、単なるデザイナーとしてだけではなく、そういったビジネススキームにも精通しておられ、シニカルな視点と冷静な観察眼を持って、汐留、丸の内、六本木ヒルズ、代官山、町田!、北京を語っていきます。各再開発に通底するのはテーマパーク型フェイク都市設計手法。ヨーロッパの石ばっかりの城塞都市や日本の京都が美しく調和しているのは、建築の技術的限界から選び得る手法が単一だったからこそだそうで、21世紀の建築技法であれば、それこそ無限と思えるデザインの選択肢が設計者には可能なんだそうです。いっぽう現実の都市は整合と不条理、聖と俗があいまって構成されるものであり、統一的環境における異化空間を楽しむには、都市外部のテーマパークという仮想都市にいかねばならない。そのテーマパーク手法を都市内部の再開発に持ち込んだのが資本の論理だというのです。この擬似ユートピアはしかし当然ながら、生活感を排除した「住む街」にはなかなかなり得ません。
 六本木ヒルズは地元住民がタワーマンションに住んではいますが、基本、おのぼりさんが遊びにいく祝祭空間であり、また少し前のヒルズ族に代表される一種のニューエリート層が働く場所であった訳です。その意味では私もあの迷宮が嫌いでない。いっぽう汐留は仕事でいく場所であることが個人的には六本木と異なる。さらに汐留は元国鉄跡地とはいえ、六本木の森一族や、丸の内の三菱地所グループのような一社独裁的開発ができる時代ではなく(失われた十年の初期に開発が始まった)、リスクヘッジのため、あの貨物操車場を細かく分圧して土地を売った(正式には売ったんではないかもしれませんが)ため、各地主がてんでばらばらな向きに箱型ビルを建てたため、無残な不整合都市が生まれてしまったということらしいです。 一軒一軒の建築デザインは悪くないのに、総体としててんでばらばらになってしまったのですね。
 一方六本木ヒルズと丸の内の差異については隈さんによれば、森ビルの森さんという個性と、三井三菱のような名門財閥でない遅れてきた起業家としての意地みたいなもんが結集して、あの磁場を作ったんでしょう。じゃっかん堤泰次郎とか後藤慶太の現代版みたいな御仁なのかも。知人が術森ビルに中途入社したんですが、森教の教祖さま、と言ってましたもん。 例の当社で問題になった、森さんがキャットウォークから俯瞰して次の戦力を練るために見るという、東京23区のジオラマ模型にしても、ヒトラーに仕えた建築家・アートディレクターにして能吏のアルベルト・シュペーアを彷彿とさせるものが有ります。

 隈さんが町田を評価するのは(秋葉原も評価してます。また町田で無く溝口でも多分同じでしょうが)、商業集積と市民生活と風俗などの裏町がごった煮になっていて、生活観と都市のバイタリティーが感じられるからとのこと。これが建築家の意見か?とびっくりしてしまいますが、しかしあえて斜に構えてシニシズムで言っているのではなく、中目黒育ちという出自に影響されているようです。そもそも都市と村が隣り合っていた戦後の都市近郊では町田的「ムラ状態」は当たり前だったのでしょう。その点私個人は、生まれは世田谷でも育ちがもっともっと郊外の公団住宅なので、いわば殺菌状態タウン育ちなので、町田の猥雑さはNGなんです。東急目蒲線沿線育ちの知人が、賃貸の時点では田園都市線の鷺沼に住んでいたのですが、あの一種乙にすましたハイソでござい、という街の雰囲気が嫌で、溝口にマンションを買ったので、隈さんの感触も同様なんだろうな、と想像しています。
 最後に隈さんが可能性を感じるのが北京。まあ発展途上の熱気とエネルギーでは、老成しつつある(いや、老成ではなく単に枯れてきただけか)の日本とでは、ある意味勝負にならない気がしてずるい、とは思いますが、古典的農村の「村」ではない、地縁的「ムラ化」という時間のかかるネットワーキングをベースにした、都市の熟成という方法論だけは、わが国でもまだ「いい街」が出来える唯一の可能性だ、という結論はむべなるかな。
 いずれにしても、本物のセンスと知性から発した書物との遭遇というのは心躍るものですね。
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E3%83%BB%E9%83%BD%E5%B8...
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ルイ・ヴィトンの法則

「下流社会」の正反対みたいな本。ふだんマスマーケティングしかお金にならない我ら広告会社ですが(だってTVCMとか不要だもん)、そもそもブランドというのは、この手のラグジュアリー・ブランドを指すべきであって、アメリカ流マーケティング用語のマス・ブランド、コモデティ・ブランドっていうのは欧州人には多分昔から馴染めなかったのではないかな、と思いました。歴史と職人技でいえばわが日本だって2000年以上の歴史があるのですが、手わざの世界は世界標準にならんし、老舗の食べ物は法規についていけてないし、コアコンピテンツは有るものの、ヴィトンのようにそれを世界的に(しかも日本市場をレバレッジにして)パラダイム変換できていないのが残念、というのが感想。
 ところで「下流社会」にもありましたが、年収200万の派遣社員さんの女性でもヴィトンのエピ持っていたりするのが、下層階級が無い日本の不思議さ(下流と下層の違いは同書参照のこと)。

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で、追加記事、どおしたんだ、ルイ・ヴィトン!
なんとキャラクターがキースです。
http://www.louisvuitton.com/
「ルイ・ヴィトンの法則」を読むと、アメリカ人のアーティステイック・ディレクター、マーク・ジェイコブスがプロダクトだけでなくコミュニケーションの要とあるので、彼の戦術なんでしょうか 。
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2008年3月 4日 (火)

便利屋みみちゃん

あじま先生の便利屋みみちゃん、

1年以上前に出ていたのに最近はじめて買いました。

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アル中時の唯一の連載ですが、意外に絵が荒れてない。

スミイレ、べたは「失踪日記」などによれば、アシスタントの奥さんの手になるものでしょう。

「きぐしねくて、やんだおら」とか定番ギャグや、町田康風とか(はずしてましたが)、

通向け楽屋落ちもあり楽しいです。

いまどきネタへのリンク度合いは若干すべり気味ですけど、秋葉系の話多し。

阿素子ちゃんほどじゃないにしろ、

毎回スタートはジュン君とのエッチシーンから始まるし、

サービスシーンも豊富です。

あとがき(これも漫画)で「でも俺のギャグ漫画古いし売れますかねー」

「大丈夫ですよ 表紙をオレンジ色にすれば」

のくだりは、ほろ苦いテイストでした。

ビッグマイナー:あじま先生、失踪ブームが去っているから、

雑文評論家&リトルメジャーいしかわじゅんにまた差をつけられちゃうんでしょうか。

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2008年3月 3日 (月)

クール・ジャパン 世界が買いたがる日本

2006年の2月に出た本ですから、2年ほど経っていますが、未読でした。

アマゾンの「出版社 / 著者からの内容紹介は以下のとおり。
日本を救う「新文化産業」の未来とは!アニメ、ゲーム、映画、フィギュア……
今、「メイド・イン・ジャパン」は世界最先端商品だ!
デジタルで統合が進むコンテンツ・ビジネスを国際マーケットでどう育てるか。
<文化と技術の融合した「新産業」が、これからの日本を牽引する(本書まえがきより)>
マンガやアニメをはじめとした日本のポップ・カルチャーが「クール(COOL=カッコいい)だ」と海外で高く評価され、大人気である。日本政府も、マンガやアニメ、映画、ゲームなどの「コンテンツ」が国際的に競争力を持ち、将来性も期待できる「売り物」であるとして、「知的財産戦略本部」を設置した。
これまで新聞、出版、放送、音楽、映画、ゲームなど、それぞれが独自に発展してきた産業は、デジタル化によって融合しつつあり、通信や電機、自動車などあらゆる産業も横に串刺しして再編する「コンテンツ産業」が出現しようとしている。まさに文化と技術の融合した新産業である。
この新産業が、少子高齢化や国家財政の行く末に不安を感じている現在の日本を、新しい次元へと牽引することは間違いない。                       

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 視点として、ドメスティックな生活をしてる私にとって新鮮だったのは、アメリカやフランスなど海外から見た日本の漫画、アニメ、ゲームのポジショニング。ワンアンドオンリーの津強みをもつ一方、アメリカ式の強欲なビジネスに徹していない弱みもはっきり判ります。「マッハGO!GO!GO!」が未だにアメリカで人気なんて、露も知りませんでした。聞けば日本の閉鎖的TVネットワークと違い、あちらはケーブルTVがあるので、昔から多チャンネル、のべつコンテンツ不足なんですね。広告業界的には、日本式視聴率がアメリカでは意味をなさない原因がケーブル。ネットワークだということは知っていましたが、それがコンテンツ不足といところまで想像力が及びませんでした。やはり井の中の蛙なんですね。

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2008年2月25日 (月)

スウィーニー・トッド

先週ひさびさに映画館で封切り映画を見ました。大好きなティム・バートン監督&これまたファンであるジョニー・デップ主演の「スウィニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」です。バートンとしては、スリーピー・ホロウ系の作品で、そこそこ面白かったんですけど、大傑作とは思えませんでした。

映像美は素晴らしいけど、スリーピー・ホロウで見たことあるレベルでしたし、

こちらの期待値が高すぎたのか、あるいはホラー×オペレッタ形式、ミュージカル形式が未消化だったのか。

映画でのオペラというと私はロックオペラ トミーしか知らないのですし、ハリウッド往年のミュージカル映画は吐きそうになるためひとつも見たことが有りませんが、どうしてもストーリーの陰影や複雑さが消えてしまい、どっちかというとコミックみたいになってしまう。

スリーピー・ホロウはトラッドが下敷きだったこともあり、噛めば味わいが深くなる作品でしたが、どっちかというと同じデップ主演の「フロム・ヘル」が不完全燃焼だったのと似ていると思いましたね。

 一方、こちらの感性が衰えてバートン節を味わえなくなったという可能性もありますが、どっこいカート・ヴォネガットの「タイムクエイク」を最近読んで、ヴォネガット節に感動していますので、それは無いぞ。

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2008年2月24日 (日)

カート・ヴォネガット タイムクエイク

米国を代表する(はずの)作家、カート・ヴォネガットが2007年に亡くなったことをずいぶん後になるまで知りませんでした。2008年になって、「バゴンボの嗅ぎタバコ入れ」という初期短編集(モンキー・ハウスへようこそ の姉妹版)が文庫で発売され、ヴォネガットの作品を本当に久しぶりに読んだと同時に、後書きでその死を知った次第でした。

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アメリカの作家、いや自分の読む作家のなかでも最も敬愛する一人だったはずなのですが、1990年の「ホーカス・ポーカス」以来、17年間ご無沙汰だった計算になります。「バゴンボの嗅ぎタバコ入れ」の後、手じかに有った59年の「タイタンの妖女」と75年の「スラップスティック」を読み直しました。

 さらに1998年に出た「タイムクエイク」を読み忘れていたことに気づき、ハヤカワ文庫を探しましたが、ヴォネガットは未だにSF文庫から出るため、SF不人気の昨今では、そこらの本屋では在庫切ればかりでした。

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 読み始めたら、ヴォネガット節の炸裂で、本当に懐かしくまた楽しいひと時を過ごせました。村上春樹の中期までは、部分的にヴォネガットの真似だったことが良く判ります。たとえば「チリンガ・リーン」。

 印象的だったのは、南北アメリカの先住民は16世紀に欧州人が侵略する前に1400万人ほどおり、20世紀にはその10%程度しか生存していないという挿話。数値の信憑性はわかりませんが、それを信じれば、ホロコーストのうち歴史上最大と言っても過言でないのは、はナチスユダヤ人虐殺、アメリカの原爆、スターリンの粛清、毛沢東の文化大革命ではなく、アングロサクソン達によるアメリカ先住民、特に北米のネイティブ・アメリカン虐殺だということになります。西部劇とか騎兵隊とかいって、それを誇らしげに未だに思い続けるアメリカ人の傲慢さとは一体なんなんでしょうか。

 もうひとつはヴォネガットが好きな映画。一番は「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」、二番目が「イヴの総て」、三番目が「カサブランカ」ということが判ったことです。

 この作品の前作「ホーカス・ポーカス」の内容は忘れてしまったのですが、「タイムクエイク」は、ヴォネガットの作中人物であり、彼の分身でもあるキルゴア・トラウトが大活躍し、あまつさえ、ヴォネガット本人と会話をするなど、ヴォネガット作品の総集編の様相を呈しています。

 またトラウト作!の短編が、タイムクエイク(時間の地震)で止まった10年間の前後に、計算づくなのか無秩序になのか、たくさん散りばめられ、時間軸の構成としてはかなり複雑なメタフィクションになっています。筒井康隆の「虚構船団」は今思うとメタフィクション足ろうとしてかなり生硬な出来だと思いますが、ヴォネガットはそこらへんがとっても柔らかい。しかし複雑さはかなりのものです。

 遺作のエッセイ「国の無い男」は、爆笑問題の太田光推薦という帯付で出ていますが、これは小説ではなく、エッセイなので1600円強の出費は控え、文庫になったら読んでみようと思います。

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横山大観

新国立美術館の横山大観展を見てきました。
http://www.asahi.com/taikan/exhibition/index.html
我が朝のゲイジツにはじつはあんまり興味が無く、日本画といえば、古い時代の琳派と、もっと最近の加山又造とか工藤甲人しか知らず、明治・大正・昭和の巨人 横山大観については、その代表作も知らない始末。
 なんでそれでも見に行ったかというと、70過ぎの母親が、お友達が別の人と行くことになったので、新聞社からもらった只券が余ってしまうからと珍しく声をかけてきたからなんです。
 横山大観は多分ものすごく精力的な人なんだと思いました。西洋絵画の技法も吸収しつつ、古典的なスタイルや画題でも描くし、落ち着いた画風から破格を恐れないアバンギャルドな作風もあり、またテクニックを誇示したものから、かなり俗っぽいテーマがあったり、逆にまるで絵本の挿絵みたいな素朴な絵まで、焦点がつかめない巨人だと思いましたね。印象的なのは、松や柳を描く緑色。緑青がベースなんでしょうか、尾形光琳のビビッドな緑ではなく、やや明るく彩度の低い緑。これが好きなようで、繰り返し使われていました。
 結局好きにはなれない絵ではありますが、通と俗を超えたお方であることだけは判明。

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2008年2月17日 (日)

ゆとり教育の終わり

文科省の教育指針がかわり、ゆとり教育の方向性が修正されることになりました。

私は教育問題に意見できるような専門知識はまったく無いのですが、逆に専門家のあほらしい「ゆとり」の賛否両論の隘路とは関係なく、一ビジネスマンとして、またひとりの子供の親として思うことは多少あります。

まず、ゆとり教育自体ははっきり言って完全なる錯誤だったのでしょう。2/16の朝日新聞のインタビューで、ゆとり教育の元凶? 元文科省での旗振り役:寺脇研が言ってましたが、出来ない子のレベルに合わせて全体水準を下げるだけの施策だったわけです。落ちこぼれの子を救い上げるのではなく、そのレベルに下げちゃって、日本全体の教育水準のバーを下げちゃった訳です。

円周率3.14を3にするとか、さもしいことが行われた訳ですが、そういう戦術レベルの話はさておいて。

まず一番の問題は週5日制。これはすぐにも週6日に戻さないと、公立の小中学校は永遠に私立に格差をつけられます。従業員、とは言わないのか、教職員。彼らの休日は週休二日であるべきです、しかし、教育というサービスの受給者であるこどもたち、親たちにそれのしわ寄せをさせるのは、公共サービスの低下でしかない。税金を払っている分の対価が勝手に縮小されてしまったのです。おまえら、パブリック・サーバントという言葉を知らんのか。

また土曜日が休みになっても子供にとっていいことは無い。親と過ごす休日は増えるわけですが、給与水準がまったく上がらないここ10年においては、レジャーへの消費は増えない。こどもはこどもで、外遊びなどという習慣は極端に低下、公園でPSPとかDSライトで遊ぶ時代ですから、さまざまな体験を経ての情操教育の一環になりはしないのです。

第二、先生がかわいそうですね。カリキュラムの問題ではなく、ピンで担任を受け持つ伝統は改革すべし。だいたい新入社員、もとい新人の先生に担任をさせるとは、子供をなめてます。まず新卒3年間は担任などもってのほか。半人前の社会人に教育をさせるなど、教師側および文科省の驕りと錯覚でしかありません。

 同時に副担任制度の導入。これなら新人や問題教師のOJTになる。OJTの無い職場って考えれますか??? さらに、週休2日と、こどもの週6日制を矛盾無く実現できる、民間企業では当たり前のシフト制度です。1ポスト2名でこそ、リスクヘッジができるのです。

 またこれはモンスター・ピアレント対策にもなる。親、特にバブル世代以降の母親は、はっきり言って「ばか親」が多い。当たり前でしょう、彼女らは、新社会人の頃、アッシー、メッシーに囲まれわがまま放題だった世代なんですから。そういうばか親はある意味、偏執的クレーマーと同じです。対処するには一人ではだめ、4つの耳でキャッチし、記録しないと対抗できない。

 私の子供の場合、昨年の小学校6年のときの担任の先生が、心身症的な状況で一時休職になってしまいました。彼女は民間企業からの転職者で、年齢も30前後であり、決して新卒のひよっこではなかったのですが、恐らくは閉鎖的な学校「村」の人間関係と、あるモンスターピアレントからの執拗な攻撃にまいってしまったんだろうと思います。休職の理由は肉体的病気でしたが、半年たって、うちの子供らが卒業したら、ちゃっかりこの4月から復職しましたので、心身症とかうつ病とか、そういう発表の仕方を避けただけだと想像しています。

 文科省と日教組はコンテンツに関する論議ばかりしてきましたが、マネジメント視点がゼロなんだよね。週6日&副担任制でかなりの部分、公教育は復活できると思います。ちなみに民間企業、もとい私立の小中学校ではすでに昔から実践されていることに過ぎないのですが。

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2008年2月 4日 (月)

城塞

この赤土の丘陵の上に建つ城で過ごした日々は夢だったのか

夜警が誰何し、それに答える者たちの相貌の記憶は曖昧だ

脂の燃える嫌な匂いを放つ篝火に照らされて

崩れかけた煉瓦の壁に横たわる我が身からは

既に若い頃の力は失われている

明日の朝を迎えれば墜ちる定めの城と王国に未練は無い

己の流離の人生にも省みるべき何事も無い

惜しむらくはこの世に我が身の生きた証を何も残せなかった

人生は危ういバランスの上の細い一本の糸

どこに有るのか、それを探して彷徨う一生の最後に

探し物は結局自分の中に有ること悟った時は

落城を前にした最後の夜だった

恐らくは王であろうと娼婦であろうと

城塞の内に住まう物はなべて

結局は己が最後に瞬間にしか

その事実に気がつかないだろうが

自らもまたその陳腐な定めにとらわれていたことに

苦い笑みを浮かべながら

刃の毀れた剣に最後の油をそそぐ

人生はまばたきのごとく脆いもの

現れた時は知らず、消えるときのみ知覚できるもの

そろそろと白み始めた東の空に

苦い後悔の念だけが拡がっていく

終わりの始まり

赤い獣脂の篝火だけが

私の横顔を照らしている

城塞のひとびとは消え行く定め

篝火は朝の光に消え行くもの

終わりの始まり

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2008年1月 6日 (日)

鷲神社

1/2は近所の鷲神社(これでおどろきじんじゃ 、と読む)へ初めて初詣しました。会社の若いのにここらへんが地のやつがいて、「とどろき神社」で会うかもしれませんね、と聞き違いしてました。ちいさなちいさな神社でした。
http://utsukushigaoka5.seesaa.net/article/30501200.html

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1/3はこれまた珍しく明治神宮へ家族で初詣。夕方行ったら思いのほか空いていました。実は明治神宮に初詣は初めてなんです。

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そのあと、渋谷マークシティ内の「梅が丘 美登利寿司」で夕ご飯というなんだか典型的プチブル(死語)ライフスタイルを送ってしまいました。市場はもちろん休みでしたが、ねたはなかなかでした。

 しかし正月の行動パターンってすっかり様変わりですね。1日は初詣とか恒例行事でしょうが、二日はこれはもう各デパート、SCの初売り。都内はきっとすごい人手でしょうし、うつに地元の東急百貨店のSCでもすごい人出。福袋もかつてのもとは似て非なる存在でしょうし、アジアのお客さんもおおい。スーパーやCVSは無休だし、閑散とした中にも凛とした雰囲気が漂っていたあの正月の感じはもはや過去のものですね。

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