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2006年6月29日 (木)

クオバディス

 いえ、そんな聖書とかゴーガンみたいな大それた話じゃありません(^_^;)
酔っぱらって、電車に乗って帰ると、いかに遠回りになるか、という話なんです。だいたい、自分の家のある駅から数駅乗り越して、上り終電があればまだラッキー、なければ1時間タクシー待って無駄なお金と時間をかけて帰る羽目になる。
 おまけに駅から家まで歩くのに、千鳥足だと前にきれいなおねいさんが歩いていようものなら、いつもと全然違うルートでさらに遠回り。最終的に家に着くのは、通常より2時間くらいよけいにかかったりする、という酔っぱらいのアホなたわごとでした(^_^;)
今日も今日とて六本木で飲んで家に帰るのになんで2時間かかるかっ、てえの! Root_2

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2006年6月25日 (日)

再録:マニュアルと型

もうすでに3年前の記事ですがここに再録。

模型雑誌の方に、雑誌「作例」であんまり難しいテクニックや七面倒な工程を解説すると、少なからぬ読者の方から「難しすぎて簡単に自分で出来ないような内容は困る」という声が寄せられるという話をお聞きしました。
 反対に、超絶技巧「作品」の掲載や実機への深いリサーチといった内容の編集スタイルを採っていた1980年代頃は部数がかなり低迷したが、ここ最近は平易な解説を載せることで安定部数が確保できている、という事実もあるそうです。ターゲットをエントリーユーザー及び平均的?技量のモデラーにチェンジして、マーケティング的に成功したという訳ですね。
 80年代の件は、よくよく聞けば国内外ともスケール・プラモデルの新製品開発が低調で、ニューキット・レビューだけでは誌面が埋まらないため、やむなくあの手この手で同一キットで色んなモデラーの作例を載せていたという舞台裏があったそうです。部数の件は雑誌自体だけの問題じゃなく、キットを含めた市場自体が冷えていたためなのでしょう。

 ただ、個人的には、自分では絶対真似の出来ないようなマエストロの技やほれぼれする作例に非常に憧れ、「俺だっていつかはきっとあの高みまで登ってみたい」、と思っていたので、どうもなかなか上記の件が腑に落ちなかったのです。

 そこでもう1回この事を良く考えてみましたんですが、ひょっとしたら私ら中年モデラーと違い、若い読者層はスケールモデルの雑誌を「マニュアル」として捉えているのでは無いでしょうか?

マニュアル 【manual】 手引き書。取扱説明書。コンサイス カタカナ語辞典より

 マニュアルとは一般的には、仕事の処理手順や手続きを記述した「業務手順書」「手引き」類,家電製品など機器類の操作(取り扱い)説明書,あるいはパソコンのソフトウエアの利用者向け「使用(操作)説明書」,さらにこれらの各種手引きや入門書といった文書類を指しています。

 つまり何か既定のミッションが存在し、それに到達するための指針です。プラモの雑誌をマニュアルと捉えなおせば、基本的にはある一定限度の水準の「完成品」ができないようではダメなわけで、それは初めてのの人でも最低限理解できる共通言語と文法で書かれていなければいけません。つまり「作例」においては、個性とか、訓練無しに再現不可能な技術を応用されては、落第になってしまいます。また、新しい研究結果やそれにもとづいた考証、それを再現するための難しい修正など解説されてしまっては、ある一定レベルでの完成への阻害要因になってしまう訳であります。え、それって何か話の前後が逆さまになってないかい?


  ところが、今まで私はプラモの雑誌がマニュアルとは考えたことが無く、モデラー諸氏の「作品」が発表される、あるいはライター諸氏のリサーチや意見の発表の場と思っていました。ですから、現在の自分のレベルではできないような難しい芸当でも、修練すればいつかものになると思うし、新しい技、新しいアプローチ、新しい考証を求めて、好奇心を満たしてくれることこそが、プラモ雑誌の価値と考えていたのです。
 例えばモデルアート社ですと、別冊で工作や塗装など分野別のマニュアル本が別冊で発行されており、これはひとりぽっちで作っていた時代など、本当に重宝しました。こういう類の本で基本的テクニックを学び、実際のキットを作る際は、己の技量にあわせて適宜各種技法を取捨選択して応用してきたのです。ですから定期発行の本誌は、「作品集」であり「リサーチブック」という位置づけ。だって、プラモデルは、キットというも「半製品」で発売されるので、完成させていくには、モデラー個人個人が好きなアプローチ(例えばナナニイで様々なマーキングの機体を揃えるとか、1機にのめりこんで飽くなきリサーチの結果を乾坤一擲盛り込んでいくとか)を適宜に採用して事に臨むのです。それらのアプローチの選択は読者であるモデラーの勝手であり、あるいは権利でもあると思います。だーって、スクラッチじゃないだもん、「半製品」のキットを毎度ストレートに組んで、いつもいつも人と同じモノが出来上がっちゃうのじゃ、つまならいじゃないですか。


 翻って、マニュアルという解釈ががプラモ雑誌の位置づけとすると、最低限度の出来上がり水準という、何か目に見えない規定が既に先にあって、なんだか工業製品を生産するみたいな感じがします。
 しかし、まあこんな屁理屈を書くのも、技量自体は大してアップしない割に年のせいで長年プラモと接してきたからでこそ。マエストロの技の、どことどこが自分で取捨選択できるか、ある程度、引き出しの多さや視野の広さあるからです。エントリー層や(私だってAFVとか船をやろうと思ったら、やっぱりマニュアルが欲しいよね)、出戻りモデラー諸氏にとって、最近の精密で複雑なスケールキットを、とりあえず完成させるだけでも、大変な苦労をしなければいけない状況であることは重々承知しております。
 またスケール・キットのメーカーの方にお聞きすると、細かい部品や分割キャノピー、薄くて貼るのが難しいデカールなどがキットにセットされていると、「これでは作れない、不良品じゃないか」、とお叱りの声も結構多いそうです。
 私はガンダムのプラモデルは1個しか作ったことが無いので余り断定的には言えませんが、バンダイのキットの精度や工作難易度、あるいはアッセンブルの方法論(接着剤不要とか?)と比較すると、AFVや(特に)飛行機プラモって、ものすごく作り難く感じるんでしょう。
 それに若い方々ってある意味、すっごく素直だから、趣味の専門誌でも一応メディアはメディアなので、疑うことなく権威性があると思いこみ、記事の内容が「絶対である」と、ストレートに受け止めるのかもしれません。
 しかしながら、模型雑誌に掲載されている「作例」は、あなたと同じモデラーの作であり、別段先生でも上司でも無いのです。ペーパー媒体を無闇にありがたがる必然性は無いとも言えます。批判精神無きところに進歩無し。

 もうひとつ、メディア・リテラシーのことを付け加えておいたほうがいいかもしれません。これは「メディアが伝達したことを、読み手が社会的文脈の中でクリティカルに判断し、メディアと市民のより良い関係をつくる運動」といったことらしいです。少なくともメディアの書いた(放送した)ことを批判的に捉える習慣は、特にお上の発想、官が上という国民性の我が国では薄いようです。ある程度歳をくってくれば、ナベツネが経営する読売新聞と、あの高慢ちきな記者揃いの朝日新聞は、という比較もできてきますが(関係者の方、悪意での例えでなく戯画化したものです、すいません。それから三大紙の例えは東京や大都市圏でのみ通用するものですね。これも問題。東京でしか暮らしたことのない人は、例えば静岡県民の大半は静岡新聞1紙しか読まず、三大紙の存在を意識しない、事実を知らない)、若いうちはそういう背景情報がインプットされていないため、どうしても素直に信じてしまいがちでしょう。また批判的精神があったとしても、テレビのバラエティ番組のように繰り返し繰り返し同じ事をシャワーのように浴びせられると、人間の心理は否応なくそれに馴れてしまいます。模型雑誌などでいえば編集方針に当たるのでしょうか。実機へのリサーチ記事があり、それに対応してキットの修正を行った作例記事を掲載する、といった方針で毎号展開されると、かならずキットは修正しなければならない、といういわれのない強迫観念に襲われてしまうことがあるのかもしれません。これなど、では全部ストレートフロムザボックス記事にせい、と編集部に投書するのでは本末転倒であって、自分の目と手、知識水準を向上させ、クリティカル・シンキングが可能になれば良いのです。
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 さて、ここでもう1回、なんでマニュアルが模型制作に必要なのか、と考えますと、キットに同梱されている組み立て説明書8インストラクション)の代用なんじゃないでしょうか。

インストラクション [instruction(教えること)] [1] 指示,指令.機械・器具の使用法や使用上の注意.〈現〉コンサイス カタカナ語辞典より

 キットのインストは、単に組み立て手順とパーツリスト、塗装とデカールの指示書止まりであって、しかも大半はモノクロ印刷。素組で完成させるだけでも、情報は少なすぎるは、見た目も地味だわ、で必要十分条件を備えたマニュアルにはなっていません。PCのソフトのPDFマニュアルなんて、あんなもん普通は読みたくないですし、読んでも理解できませんね。そこで登場するのが「はじめてのイラストレータ9.0:とか「一週間でマスターするエクセル2000」といった入門書。この類は全ページ、カラーで写真や図表を使い大変分かりやすく編集されています。
 プラモデルのキットという製品に、この手のマニュアル本のようなカラー4C、写真ばんばん、アートコート紙を使った豪勢なインストをセットするなんて、とてもとても今の売価設定では収まりませんやね。
 そこで、これのプラモ版の役割を月間誌が担っているのでは無いか?キットと模型雑誌との共生関係(あるいはヤドリキ関係)のもと、キットの付属品としての模型雑誌というポジショニングが(意図的でないにせよ)生じてきたのでは無いでしょうか。かつては、特集では実機考のページと「作品」集、それとは別にニューキット・レビューがあって、後者は紹介なのであまり作り込みはせず、新製品を紹介して拡販するツールという意味をになって、分化していたように思います。
 これが同じ趣味でももっとユーザー層の広いゴルフや釣りなどであれば、雑誌メディア自体が各々セグメントして、もっと明解な編集方針で済み分けているので、立場やレベルの違う読者があーじゃこーじゃ、というような場面は少ないのでしょうが、残念ながら衰退基調に有るプラモデルでは、そんな贅沢はゆるされるべくも無いのが現実です。モデルアート誌がややエントリー層ターゲット、スケビやアマモが中〜上級、MGがガンダム含むオールアイテム、HJがスケールほぼ除外と、かなりの程度ポジショングやベクトルは違うものの、同工異曲の連載記事や編集内容も有るし、そもそも想定ターゲットは意図的にセグメントしたら、少ない読者がさらに減ってしまいます。また冒頭にも触れたように、何の世界でも同じように、エントリー層からミドル層が一番人口が多いわけで、なるべくそちらをターゲットに絞る方がマーケティング的には正解です。

客当たり売上=購買数×単価×頻度

キットであれば、ハイエンド層自体の人数は少なくとも、購買単価や購買数、頻度が高いのでターゲットとしては、エントリー層よりある意味おいしい場合もある。

しかし月間雑誌は同じ号を複数冊買う事はあり得ないし、内容が濃いといって定価を倍にはできない宿命なので(単価と頻度が固定)、人数の多いミドル〜エントリーゾーンをターゲットにするほうが売り上げが上がる。

 ま、マニュアルとして捉えるか、考証や工作技術の参考書として捉えるかは、読者の勝手ですが、少なくとも雑誌は神様でも教科書でも無い訳で、書かれている内容を金科玉条と思い、一言一句に囚われてしまっては、読者=モデラー自身が不幸になるだけです。集中と選択、これが要件ね。

 プラモデルを離れますと、私は決してマニュアルを否定するものではありません。年輩の方が若い世代を表して「あいつはマニュアル世代だから想像力が無い。自分から積極的に仕事をしない。」などと良く仰います。これは一面では真理かもしれませんが、裏側ではそういう積極性を引き出せない上司の能力不足の言い訳にしか過ぎません。だってマニュアルはそもそも、ある一定の目的を果たすための手引き書な訳で、それを逸脱して勝手な解釈をされてしまったら、工業製品の品質管理など出来なくなってしまいます。積極性を引き出すのは、明確なミッションの提示と環境づくりな訳で、マニュアルとは本来関係無い話です。私見ですが、マニュアルの概念が無かった世代(団塊以上あたりでしょうか?)が、一子相伝、技は盗め、習うより馴れろ、という暗黙知だけしかない仕事の仕方の体験から、ノウハウの言語化というマニュアルの本質を理解できないまま、遠吠えしてるんじゃないでしょうかね。全てが明解知に成る訳はもとより無いのですが、すくなくとも最低限の基本は共通認識を持っていれば、無駄な時間の短縮化になるし、人間のローテーション、新人教育も初めて可能になります。OJTでしか伝達できない部分は絶対有るわけですが、全てが職人芸ということでは有りません。またマニュアルを作る、あるいはちゃんと機能するようにブラッシュアップすることは、その業務を批判的に評価し、内在する問題点を発見することであり、また他者に伝達する能力を磨くことに繋がります。マニュアル文化否定論は、マニュアルのポジションを謝っているのと、マニュアルの不備から来る問題を、マニュアルの存在にすり替えてしまっている場合が大半なのでは、と思います。まあしかし、これはかつて、中間管理職の私が、古い頭の上司に悩まされてきた故の愚痴にしか過ぎませんけれど(^_^;)

 一方で養老孟司さんが主張する、日本人の身体感の中での「型」というものも、新しい意味づけがされて再考の場に上がってきているやに思います。養老センセ曰く、「技とか芸というものは、身体を使う。師匠の型を盗んで、自分の型をつくる。それは理屈ではない。だから言葉で説明しようが無い。やってみて覚えていくしかないのである。それは繰り返して試行錯誤しながら、身体が覚えるのである。」「芸の世界では型を大事にし、それを守らせる。守って守ってついに師の真似が出来なく成ったとき、それが初めて弟子の個性となる。型なくして個性など無い。」結局個性とは脳ではなく身体である。目や耳などの入力系から入った情報を脳でいちいちゆくっり処理することから、繰り返しの連続により、手という出力系への伝達をスムーズにしていくことが、結果として型になるそうです。もっともこいう論理を無視して、新しい教科書を作る会のように、軍事教練的な振る舞いを礼賛するのは偽の骨頂ですけれど。

ここで「型」について、養老さんの意見を少し付記しておきます。もともと言葉としては、武道の「型」を援用していて、「身体の所作」を差していた言葉がその後様々に流用されるようになったとしています。「文武両道」の概念も明治以降、「畳に正座して本を読み、それが済んだら道場で竹刀を振り回す(養老孟司の逆さメガネより)」と解釈されてしまっているが、もともとは知行合一のことであり、「文」という情報の入力と「武」という情報の出力(人間の出力系は、言葉でも手足でも筋肉しかない)がひとつのサイクルになっていることが望ましい、ということのはずだったそうです。そして、出力された動きが再度入力され固定され所作になっていく。江戸時代の日本人は歩くとき、手と足が同時に出ていたそうです。これは武士が刀を使うためだったらしいのですが、そうすると肩がいかつく張った動きになり、着物や裃をまとうとピシっとするが、反面早く走ることはできなかったらしい。でもそれがかつての日本人の立ち居振る舞いの美しさであり、茶を点てるときの背筋のピンとした所作の原点でもあったそうです。
 最近脳のモデルとしてとりあげられているのは「ニューラル・ネット」というもので、大雑把に言えば「出力の結果によって次の出力を変えていくプログラム」「自ら間違いを訂正して学習をしていくプログラム」(養老孟司 バカの壁)だそうです。なんだ赤ん坊が言葉や動きを覚えていくことと同じですね。ここらへんは養老さんの近著(上記二書のほか、ガクモンの壁をふくめた三冊は、大体同じ事を薄めて解説してありますので、どれか一冊読めば同じことと思います。一般読者がとっつきやすいように=出版社としてはベストセラーを可能にして同じネタで儲けるための戦術にまんまと乗るのも一興ですが、、、笑)。

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Model2.0

Web2.0の概念がだんだんと敷衍されてきましたこの頃、いっぽう個人的にはSNSもブログも未経験で業務上「ワードとして」知っているだけ、実態感覚が持てないまま1年・半年が過ぎました。これでは時代感覚に取り残されると言いう半ば化石おやじ化恐怖感と、オープンアーキテクチャーやらロング・テールが標榜される時代に、これまた化石産業化していくスケール模型界の2.0化って何だろう?というポジティブな興味から、やっとこさ遅ればせながらブログを開始しました。
 個人ホームページでは、パソ通の方々がベータ版とすれば(失礼!)、我ら2000年以降の参入組がいわば1.0世代。ところがHP2.0世代とブログが混淆してきましたので、その棲み分けとか関連性がいまひとつピンと来ない状況ではありますが、HPの雑記録をこちらに移行するような感覚で当面向かい合いたいと思います。

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