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2006年9月25日 (月)

蕎麦屋の経営って難しいのね:手打蕎麦 賀庵

  溝口の蕎麦屋さん 「高はし」を紹介したので、それなら地元の隠れた名店こそ先に紹介すべきだったと思い、「賀庵」のことに少し触れます。

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田園都市線 たまプラーザ駅から徒歩で言えば15分か20分、閑静な住宅街の中にあり、とてもとてもビジネスとして飲食店経営をやっていく立地にはありません。ご亭主は脱サラだったのでしょうか、手打の蕎麦にこだわり、酒やつまみ、内装にも遺憾なくセンスをめぐらしている、ヌーベル・ソバジーヌ?の典型のようなお店でした。席数はうろ覚えですが16席くらい、厨房にご亭主一人、洗いとサーブに一人で切り盛りするにはすこし広すぎか。しかし住宅地なので夜などファミリー客を迎えるにはカウンター席は不要で、多少またせても四人席が複数ないと回転しなかったのでしょう。

 内外装は和を基調にしており個性的ではないですが、多少ネオジャパネスク風の調度もあり、安心感のあるデザインでした。

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 お蕎麦は二八が基本で、かなり細切りでした。充分蕎麦のえぐみも感じさせながら下品にならない深さもあり、つゆもあまり濃くなく上品です。夜は日本酒、焼酎も種類もそこそこあり、あても楽しめました。

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惜しむらくは開店当初に比べて天ぷらの油の切れがいまひとつになてしまったこと。かきあげなど流行の前から取り入れていたのに残念です。

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最後にこの店の唯一にして最大の欠点を上げると、それはは接客。サーブに当たる女性はご亭主のお嬢様なのかどうか分かりませんが、ずっと同じ人で異動?は有りませんでした。夕刻閉店1時間前になると、あからさまに店に入ることを嫌がるし、電話の応対も非常に冷たいです。これでずいぶんお客を失っているだろうことは想像に難くないので、せっかくの丹精こめた手打蕎麦の味が泣こうというものでした。

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さて、この記事を過去形で書いたことに気づかれましたでしょうか。写真は2.005年12月31日年越し蕎麦の際のもの。賀庵、2006年7月には閉店してしまったそうです。やはりうどん屋と違い、小麦粉より原価の高い蕎麦屋を、住宅地立地(つまり夜の飲み屋収入が期待できない)で、拙劣な接客で行うと、いかにおいしい蕎麦を打っても経営は続かないということでしょうか。

現在、賀庵のあった、横浜市青葉区 美しが丘4-19-19 すみれハイツ103 には「風来蕎」という、これた手打蕎麦のお店がたぶん居抜きではいったそうです。開店して2ヶ月経つそうですが、まだ私は行っていないので論評は出来ませんが、地元民ブログによれば、未だし、との評価でした。たまプラにはおいしい蕎麦屋が少なく、まあまあであった駅前の 「利休」も2005年頃に潰れてしまったし(いまは韓国風焼肉店)、まあまあのレベルだった源氏庵はあざみ野のご自宅に引っ込み、事前予約制の道楽へ移行、http://www.minard.co.jp/kyorakuan.htm、北前倶楽部など一度も行かないうちに潰れてしまったです。エリア住民には関西からの転勤族も多いせいなのでしょうか、蕎麦屋の鬼門なのか、不思議ですねえ。鷺沼の「好味屋」は昔から有名ですが、細すぎで上品過ぎだし、学芸大学の「夢呆」は遠いし、近所によいお店がないものか。

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2006年9月24日 (日)

手打ち蕎麦 高橋/蕎麦教室 李泉

2006年9月24日、こどもが溝口の洗足学園で中学入試の模擬試験を受けていたので迎えにいきました。ちょうど昼時だったのでマクドナルドに寄るか?などと話をしていたら、洗足の向かいの「フィオーレの森」というレストランの集合ゾーンに蕎麦屋さんがあり、「新そば入荷」とあったので、無理にこどもを拉致して入ってみました(^。^)

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 お昼は天ぷらも無くせいろと合い盛りなど蕎麦オンリーです。二人とも合い盛りを頼んでみました。たぶん二八くらいで田舎のほうも色も薄く上品な感じ。面は細いほうです。つゆはかつお出汁ベースでしょうか、少し濃いきらい。まあ私の舌は信用できるほうじゃないですし、新そばは打つ側にしてもまだ去年の粉と同じには打てないため試行錯誤の時期でしょうから、この一食で断定は出来ないでしょうけれど、このエリアであれば充分本格派の手打ち蕎麦として上位ランクになるんじゃないでしょうか。田園都市線方面で有名なのは、鷺沼の好味屋、学芸大学(東横線ですが)夢呆(溝口のノクティにあるお店はまったく別物のサラリーマン昼飯用蕎麦ですのでご注意を)あたりでしょうが、あ蕎麦そのものに遜色は無いと思います。ただ蕎麦教室 李泉がメインなのか、高橋のほうは席数も10席と少なく、メニュー数も少ないです。お聞きはしませんでしたが、ご商売というよりは道楽に近いのでしょうか?あるいは蕎麦教室 李泉が一種のチェーンオペレーションになっているのでしょうか。2005年の12月から開業しているそうですが、ネット検索すると店主さんが代替わりしているのかもしれません。

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蕎麦 高はし

川崎市高津区久本2-8-1フィオーレの森3号館2F

電話:044-865-2143

「フィオーレの森」

http://www.bosco-del-fiore.net/

蕎麦道場 李泉 の案内

http://k-kankou.jp/kanko/db/data/40301.htm

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結婚披露パーティー

社の若い衆が結婚しましたんで、二次会のパーチーには顔を出してみました。
 考えてみると身の回りの人間の結婚って久しぶり。40代後半という、ちょうど自分の年齢がそういう時期なんでしょうね。同僚はもちろんいまさら結婚なんて有り合えないし(再婚した奴もいたけどやはり40前半だったのでもはや数年前)、親戚も三十路迎える・迎えたで結婚というのが数年前までで一段落。しかも今のセクションは全員私より年長だし。まあご祝儀代がかからなくて、いいっていえばそうなんですが、逆に昨年の実父も含め、同僚・先輩の親族の葬式は増えているわけで、お香典代がかかるから需給?バランスは同じです。そんなら明るい結婚式のほうがいいやね。
 新郎も35歳くらいなんで、本当に最近はみな晩婚傾向です。女性も三十路の壁なんていってたのは遠い昔。あるいは結婚しても披露宴やらないケースが多いし。ちょい前に結婚した、かみさんのいとこの夫婦(やはりオントシ34,5歳かな)は、ワイハで親戚だけの式でしたっけ。
 私自身は地方で結婚したのでごくごく普通の式でしたが、セゾン・グループ時代の同僚は、ちょうどバブル真盛り、販売促進部やら環境デザイン部所属ですから、ウォータフロントの倉庫を貸切でイベント的パーチーなんか多かったですねえ。それを思うと今の連中のほうがよっぽど健全ですね。 Shino_041sm

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2006年9月17日 (日)

国宝 風神雷神図屏風 ―宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造―

出光美術館で開催していた「国宝 風神雷神図屏風 ―宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造」という展覧会を見に行って来ました。

http://www.idemitsu.co.jp/museum/index.html

                                              Ticket_5

江戸初期に、俵屋宗達が残した最高傑作、国宝「風神雷神図屏風の完成のおよそ七・八十年後に、宗達を慕い琳派の後継者を自負した同じ都の絵師・尾形光琳によって、模作がつくられていますそしてそこからさらに一世紀ほどを経て、幕末に東国江戸で琳派を再興した酒井抱一が、あらためて光琳画から模作をつくりました。これら三つの作品を一堂に展示しています。素人の直感的な感想は、やはり初代宗達が一番いいです。模写した光琳、それをまた宗達の模写と知らず模写した抱一と、時を経るごとに、二人の獣神が漫画チックに変容していくさまが面白かったです。ただこれをDNA模写のようにだんだんオリジナルが劣化していくと見るのは早計で、宗達の作品は色もあせており古色がつき、素人にはなんとなく有り難く見える側面も有ると思います。平安時代の東大寺が赤緑と金箔で覆われ完全に中国風デザインのコピーだったさまをいまの我々が想像できず、かつそのさまには恐らく敬意を払えないであろうことと同じです。

 逆に光琳はやはり「かきつばた」の豪華絢爛な屏風のほうが名作ですね。風神雷神はたぶん自分の心覚えのための模写だったんでしょう。なお宗達は扇子屋さんを経営するデザイナー、光琳は公家、大名、役人など、多くの庇護者やパトロンをもつ欧米と同様の中世の絵描きの典型、抱一は大名家の次男で光琳に私塾し江戸琳派の創始者といわれますが、すこしだけ作品を見た限りでは「まじめな研究者・愛好家」の域に留まっているようにも思えます。出光美術館の収蔵品に抱一の「かきつばた図」が有るのですが、写真で見る光琳のかきつばたより鮮度が数段落ちて見えました。

 私が特にこの展覧会が素晴らしと思ったのは、その三代の絵師の作品をただ並べるだけでなく、あるいはただ研究者の記録を文字データで掲示するだけで終わらせず、私らのような素人にも充分知的好奇心を満足できるよう、よく考えたプレゼンテーション手法が施されていたということです。三人の絵師の作品はそれぞれ部分ごとにアップ写真パネルを掲示、同異を解題してあったり、文字情報を単なるプリンタ出力パネルではなく、紗がかった布のタペストリに印刷したり、先に三作品を見せておき、そのあとゆっくり解題するという構成で、導線も工夫されていました。

 国営の美術館が海外の有名美術館の作品レンタルで汲々とし収蔵作品展に工夫が少ない中、あるいは東京都写真美術館や水戸芸術館がキュレーターのセンスによるエッジの立った先鋭的テーマを行い素人感覚と乖離しがちなのに対し、一見地味ながら、知と美をきちんとリンケージしたこの試みはとても新鮮でした。これからの日本の美術館のベクトルを示唆するとまで言ったらおおげさでしょうか。

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2006年9月 9日 (土)

「優しい魂よ」

Eiki202 2005年8月9日に他界した父の遺稿詩集「優しい魂よ」が出版されました。 http://ryukyushimpo.jp/info/storyid-15928-storytopic-22.html

(以下、琉球新報記事より)

 2005年8月に亡くなったH氏賞受賞詩人で、山之口貘賞の選者を28年間務めた知念榮喜氏の遺稿詩集。知念氏が、亡くなる直前までつづった手書き詩集を基に作成。表題作を含む17作品を収録しています。研ぎ澄まされた感性から沸く、切迫したリズム感、澄み切った生の鼓動が、あふれています。
  高見順賞を受賞した詩人で作家の辻井喬氏(本名堤清二)が「知念榮喜の人と作品」、現代詩花椿賞受賞の詩人・高貝弘也氏が詩「汀のひとよ―知念榮喜翁の魂に」、歴程新鋭賞受賞の詩人・田野倉康一氏が「血のなかの産土―知念榮喜の詩集をめぐって」をそれぞれ寄稿しています。

琉球新報社発行 価格2,100円(税込) ISBN 4-89742-175-X 判型B5判107ページ 2006年7月発行

相当数の原稿は10年以上前から暖めていたはずですが、前回の詩集を出した神戸の出版社が原稿を預かったまま、売れないと予想し、塩漬けだったのです。父の死を期に、父がずっと「山之口獏賞」の選考委員を務めていた関係で主催している琉球新報社さんが出版の意向を示してくれたのでした。とはいえ100部買取が条件ですから自費出版でこそ無いものの詩集は商品にはなりえないですねえ。

父も死を予感していたのか、手作りの生原稿の綴りを、家(私の母親)と父を師匠のように慕ってくれた田野倉さんという在京の詩人、それに山之口獏賞受賞の在沖詩人与那覇さんの三人に生前渡しており、これをもとに原稿を作る作業が始まりました。今回は与那覇さんの馬力で辻井喬氏の寄稿を得ることが出来、また田野倉さんの絶大なる尽力のより父の年譜が出来ました。なお、私自身はこのプロセスにはまったくかかわっておりません。ここでお二人には心から感謝を表したいと思います。

与那覇さんには申し訳ないのですが、田野倉さんが喝破されたように、父はやはり沖縄という幻の故郷を心の中に求めた彷徨の人であり、決して沖縄の土着性とは無縁の人でありました。またありがたいことに、年譜を作成していただいたおかげで、断片的にしか聞いていなかった交友関係や日本浪漫派との関わりが分かったことです。生前には聞いてもつながらなかったのに不思議なことですね。

ご希望の方は琉球新報事業局出版事業部098-865-5100へ。

ご連絡いただければ私からも著者買取分を定価で発送できます。

紀伊国屋で買う

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-ISBN=489742075X

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